
<穀雨>春雨のささやき
Share
四月の終わり、村瀬直人(45歳)は書斎の窓辺で、静かに雨の音を聞いていた。
しとしとと降る春の雨が、庭の土をやわらかく潤し、新緑をしっとりと濡らしている。穀雨(こくう)――田畑を潤し、穀物の成長を助ける恵みの雨。この時期になると、昔、祖父が言っていた言葉を思い出す。
「この雨が降ると、種はぐんと伸びるもんだ」
直人はコーヒーをひと口飲みながら、小さく笑った。祖父が大事にしていた家庭菜園は、今ではすっかり手入れが行き届かなくなったが、それでも春の雨が降るたび、あの懐かしい畑の匂いを思い出す。
――と、そのときだった。
ぽたり。
デスクの上に、一滴の水滴が落ちた。
「……?」
天井を見上げるが、雨漏りの跡はない。では、どこから?
もう一滴、ぽたり。
気づけば、デスクの上に小さな水たまりができている。まるで、そこだけ雨が降っているようだ。不思議に思いながら指先で触れると、その瞬間――
景色がふっと揺らいだ。
気がつくと、直人は祖父の菜園に立っていた。雨に濡れた土の匂いが鼻をくすぐる。目の前には、懐かしい祖父の背中があった。
「おじいちゃん……?」
祖父は鍬を持ち、ゆっくりと畑を耕している。ふと振り返り、穏やかに微笑んだ。
「種をまいたら、あとは雨を待つだけだ」
静かな声に、直人は胸がじんと熱くなった。
祖父が亡くなってから、彼は畑のことをすっかり忘れていた。だが、確かにここには、祖父の手が作り上げた小さな命の営みがあったのだ。
「そろそろ、おまえの種も芽を出す頃だな」
祖父の言葉が、雨音に溶ける。
――はっ。
直人はデスクの上で目を覚ました。コーヒーの湯気がゆっくりと立ちのぼっている。
夢……だったのか?
ふと窓の外を見ると、雨に濡れた庭の片隅に、何かが芽吹いているのが見えた。去年、娘が遊びながら蒔いた花の種だ。
「そろそろ、芽を出す頃か……」
穀雨の恵みを受け、静かに育つ新しい命。
直人はそっと微笑み、雨の音を聞きながら、今夜は早めに休むことにした。
外では、やさしい春の雨が降り続いていた。