<雨水>ニューヨーク、退紅の空の下で

<雨水>ニューヨーク、退紅の空の下で

ニューヨークの空は、雨を含んだ淡い夕暮れに染まっていた。高層ビルの隙間から覗く西の空が、わずかに退紅色を帯びている。

久美子はオフィスの窓際に立ち、ぼんやりとその色を見つめていた。

「雨水の頃ね」

ふと、そう呟いた自分に気づき、微かに微笑む。日本にいた頃、この時期は冬の厳しさが和らぎ、雨が少しずつ雪を溶かしていく季節だった。だが、この街では、冷たい雨が降るたびに空気はどこか湿り気を増し、それでも春の兆しは見えないまま、ただ夜が深まっていく。

デスクに戻り、書類の束を整理する。外資系企業で働く彼女の毎日は、容赦なく流れ去る時間の中にあった。成功も、焦燥も、矛盾も、全てを飲み込む街。ここに来てもう七年が経つが、いまだにこの空を「帰る場所」とは思えずにいる。

窓に映る自分の姿をふと見つめる。シンプルな黒のタートルネックにジャケットを羽織り、指にはお気に入りのシルバーリング。完璧に装ったつもりでも、その影はどこか頼りなく揺れていた。

スマートフォンが震える。日本にいる母からのメッセージだった。

──そっちはまだ寒いでしょう? こっちはもう梅の花が咲いているわ。

「梅……」

久美子は小さく息を吐き、デスクの片隅に置いてある小さな手帳を開いた。最後のページには、日本を発つ前に書き残した言葉がある。

「春になったら帰る」

思えば、あの言葉を書いてから、もう何度春を見送っただろう。

窓の外では、雨が降り始めていた。音もなく、静かに街の光を滲ませながら、雨水の季節がニューヨークのアスファルトを濡らしていく。

久美子は立ち上がり、コートを羽織った。オフィスの扉を開けた瞬間、冷たい空気が頬をかすめる。それでも、雨の向こうに見える退紅色の空には、ほんの少しだけ、春の予感が滲んでいた。

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